『週末探偵/十五夜の猫の謎』            沢村浩輔


       1

 九月最後の土曜日。
 瀧川一紀と湯野原海が探偵になって二度目の夏が終わろうとしていた。
〈瀧川&湯野原 探偵事務所〉は東京郊外の郷咲という街にある。駅前からバスに乗り、五つめの停留所で降りて、丘陵地の坂道を上った閑静な住宅地の一角だ。
 知らない人が見ても、そこが探偵事務所だとは思わないだろう。
 フェンスで囲まれた敷地に芝生が敷かれ、中央に楡の木が枝を広げている。そして楡の根元に小さな凸型の車掌車が置かれていた。
 元々はある実業家が、旧国鉄が払い下げた車掌車を買い取り、室内を改装して書斎として使っていたものだ。オーナーが亡くなった後は長く放置されていたが、偶然の成り行きから湯野原が借りることになった。湯野原は友人の瀧川を誘い、自分たちで車掌車の色を黒からブルーグレイに塗り替えると、週末だけの探偵事務所を始めた。
 それから一年三ヶ月が経った。
 開業した当初は友人しか訪ねて来なかった事務所が、少しは世に知られるようになったのかというと、相変わらず閑古鳥が鳴く日々である。
 だが当の本人たちは特に焦る様子もなく、来客用のソファでのんびりと読書をしたり、芝生の上にテーブルと椅子を持ち出して珈琲を味わいながら、週末をのんびりと過ごしていた。
 そして今日も一人の依頼人も来ないまま、営業終了の時刻となった。
 普段は午後六時が来れば、板張りの床をモップでさっと一拭きして扉に鍵をかけ、夕飯を食べに行くのだが、今日はこれからちょっとしたイベントがある。
「それじゃ準備にかかるか」ソファの上で伸びをして、瀧川が立ち上がった。
「そうだな」湯野原がデスクの引き出しから小さな鍵をとりだした。
 瀧川と湯野原は事務所のタラップを降りて芝生を横切り、敷地の隅にある倉庫に向かった。倉庫のシャッターを開けて丸テーブルと椅子を運び出す。テーブルと椅子を楡の木陰に並べて七人掛けの席を作った。それから発泡スチロールの箱に氷水を満たし、缶ビールを放り込んだ。
 湯野原が敷地の前に停めた軽自動車から大きなフライパンと食器一式を抱えて戻ってくる。事務所の簡易キッチンには、珈琲カップと数枚のお皿しか置いていない。湯野原がわざわざ自宅から持って来たのだ。
「さて、メインディッシュに取りかかるぞ」
 瀧川は冷蔵庫から豚肉と豆腐をとりだした。そしてキッチンの隅に置いてあるビニール袋からかたちのよいゴーヤを選び、ザクザクと刻んでいく。
 湯野原がコンロにフライパンをかけて油を引いた。いうまでもないが、これからゴーヤチャンプルをつくるのだ。
 なぜゴーヤチャンプルかというと、夏のあいだ、事務所の日よけ代わりにゴーヤの苗を植えてみたら予想を超えて苗が大きく育ち、数え切れないほどの実を付けたからだ。収穫した数十本のゴーヤを前に探偵たちが途方に暮れていると、宅配便でプレミアムビールが届いた。二人に窮地を救われた依頼人が、お礼に送ってきたのだ。
 かくして事務所のテーブルの上に、缶ビールとゴーヤが積み上がった。
「うーむ。嬉しいが、俺たちだけじゃ、とても食べきれないな」
「じゃあ、みんなにお裾分けしようぜ」
 というわけで、親しい人を招いて、ビールとチャンプルを振る舞うことにしたのである。
 探偵たちができあがった熱々のチャンプルをお皿に移していると、招待客が次々にやって来た。
 お客を来た順番に紹介すると、事務所オーナーの代理人である深原氏。行きつけの喫茶店『JULY』のマスターの須藤と、須藤の姪で写真家志望の吉槻加奈。瀧川と湯野原の大学時代の同級生で、記念すべき最初の依頼人である片桐理沙。そして郷咲町の町内会長をしている長谷川の五人だ。
 日頃の感謝を込めた飲み会なので手ぶらで来て下さいね、と二人は念を押したのだが、先方としてはそういうわけにもいかず、全員が手土産を持参してきた。その結果、ビールとチャンプルに加えて、幻の名品といわれている純米吟醸『羽隠れ』や麦焼酎『誉れ雲』、郷咲商店街で連日行列ができる森田精肉店のローストビーフと揚げたての鶏カラ、横浜土産として名高い『黒糖堂の焼き焼売』などがずらりと並び、ささやかな飲み会のはずが、一気に絢爛豪華な酒宴となった。
 まずはビールで乾杯する。お喋りしながら持ち寄った料理を腹に収め、滅多に飲めない高価な日本酒や焼酎を味わっているうちに、いつしか西の空に夕陽が沈み、東の空には星が輝き始めていた。
 二杯目の『羽隠れ』を飲み干した瀧川は、満足のため息をついて参加者の顔を眺めた。
 全員がほんのりと酔った顔に、満ち足りた表情を浮かべていた。
 湯野原と視線が合う。湯野原が悪戯っ子のように目配せを送ってきた。瀧川は小さく頷く。
「皆さん。ちょっと聞いてもらえますか」
 和やかな会話が止んで、五人の視線が瀧川に集まった。
「今日はお忙しい中、お付き合い頂いて、ありがとうございます」
 と瀧川はお礼を述べた。
「俺たちとしては、皆さんをもてなすつもりだったんですが、逆にもてなされてしまったみたいで恐縮しています」
「気にするな。いつものことだ」長谷川が愉しげに言い、加奈と理沙がクスクスと笑った。
「ですが、このままお開きにするのはつまらないので、ちょっとした趣向を考えました」
「ほう」
「これからささやかな謎をひとつ、皆さんにお話しします。実際に俺たちの事務所に持ち込まれて、すでに解決済みの依頼の中から、面白そうなものを選びました。もちろん、ここで話すことは依頼人の了解を取ってあります」
「へえ、実際に起こった事件か」須藤が身を乗り出した。
 瀧川はにっと微笑んで、招待客の顔を見渡した。
「どうです? 見事にこの謎を解き明かして、探偵の気分を味わってみませんか?」
 返事は聞くまでもなかった。早くも全員が探偵の表情になっていたからだ。


       2

「今から二ヶ月ほど前のことです。一人の男性が胸に一匹の猫を抱いて、ここを訊ねて来ました」
 と瀧川は話し始めた。
「依頼人の名前は、相田さんにしましょうか。住所は東京近郊のどこか。年齢は五十代で職業は会社員です。――といっても、個人情報は出せないので適当にぼかしています。おおよそのイメージとして聞いてください」
「了解」と須藤が頷いた。
「相田さんには奥さんと二人の子供がいます。奥さんは専業主婦で、会社員の長男は三年前から家を出て一人暮らし、長女は高校二年生です。結婚して二十五年。大きなトラブルや悩みもなく、相田さんは平穏無事に過ごしてきました。今回の依頼の原因となった、あるできごとが起こるまでは」
「あ、もしかして」と加奈が訊いた。「相田さんが胸に抱いていた猫が、依頼に関係しているんですか」
「その通り」瀧川は頷いた。「その猫の存在が、相田さんを悩ましている謎なんだ」
「ほほう、猫絡みの謎か……」と須藤が嬉しそうに呟く。「その猫は珍しい種類の猫なのかい? 希少種でとても高価だとか、国内にほんの何匹しかいないとか?」
「いえ。ごく普通の猫です。性別は雄。外見も特に目を惹くところはありませんでしたね」
「すると猫の種類や性別は、謎解きに関係ないのですね」と深原氏が訊ねた。
「ええ、関係ありません」
「なるほど」長谷川が腕組みをして頷いた。何か言うのかな、と瀧川が待っていると、「どうした? 先を続けんか、探偵」ときた。
 泣く子とこわもての町内会長には勝てない。瀧川は小さくため息をついて話を続けた。
「ことの発端は一昨年の九月に遡ります。相田さんの自宅は一軒家で、二階プラス屋根裏部屋という造りになっているんですが、屋根裏部屋にいつのまにか猫が入り込んでいたんです。まだ子猫と言ってもいい可愛らしい雌猫が」
 しばしの沈黙。
「猫が入り込んでいた?」
 一同は拍子抜けしたように顔を見合わせた。全員の顔に、あまり大した謎じゃないね、という表情が浮かんでいる。
「それって、つまり……」理沙が皆の気持ちを代弁した。「どうやって猫が屋根裏部屋に入ったのかという謎なの?」
「ひとことで言えばそうなんだけど」瀧川は微笑した。「じゃあ片桐は、猫がどこから入り込んだと思う?」
「開いていたドアか窓から入ってきたんじゃないの?」
「それが違うんだな。相田家では屋根裏部屋を物置として使っていて、普段からドアも窓も閉めたままにしている。相田さんは猫を見つける二日前に、扇風機をしまうために屋根裏部屋に入ったが、そのときはもちろん猫はいなかった。後日、奥さんと娘さんに確認したら、二人とも一週間以上、屋根裏部屋に入っていないと答えたそうだ」
「猫が見つかったその日も?」
「もちろん」
「ドアと窓の他に、出入りできる場所はないんですか?」と加奈が訊いた。「たとえば天窓があるとか。人は無理でも猫なら出入りできますよ」
「屋根裏部屋にはドアと窓以外の出入り口はないよ」と瀧川は答えた。
「窓の外はどうなってる?」と長谷川が訊いた。「ベランダはないのか? あるいは窓のそばに樹木があれば、猫なら木の枝を伝って、開いた窓から部屋に入ることができるじゃないか」
「どちらもノーです」と湯野原が言った。「窓の向こうはただの壁で、ベランダはありません。窓は庭に面していますが、猫が飛び移れそうな樹木もありません。ついでに言えば隣家の屋根から飛び移るのは距離的に不可能です」
「……むう」と長谷川が唸った。
「それに、最初に言いましたが窓は閉まっています」
「分かっておる」長谷川が口をとがらせた。「一応訊いてみただけだ」
「窓でなければ、猫は扉から入ったんだ」須藤が言った。「おそらく相田氏が扇風機を抱えて屋根裏部屋のドアを開けたとき、猫が足元をすり抜けて一緒に入ったんだろう」
「常識的に考えればそうなりますが」と湯野原が答えた。「〈相田さんが屋根裏部屋に出入りしたときに、猫が足元をすり抜けて一緒に入ったのに気づかなかった〉が正解だったら、わざわざ皆さんに披露しませんよ」
「まあ、そうだよな」照れ臭そうに須藤が頬を掻いた。
「それに相田家では猫を飼っていません。相田さんと一緒に猫が屋根裏部屋に紛れ込むことはあり得ないんです」
「え、違うの?」理沙が怪訝そうに訊いた。「だってその猫、相田さんが連れてきたんでしょう? だから相田さんの飼い猫だと思ってたんだけど」
「相田さん自身は大の猫好きだが、奥さんが猫嫌いなんだ。だから相田家では一度も猫を飼ったことはないし、もちろん他人の猫を預かることもない。それなのに締め切った屋根裏部屋に猫が現れた。だから不思議なんだ」
「相田さんが連れてきたのは、屋根裏部屋で見つかった猫なのね」
「そういうこと」と瀧川は答えた。「相田さんは突然現れた子猫をすっかり気に入ったけど、自宅で飼うわけにはいかず、猫好きの友人に引き取ってもらったんだ。ただし友人宅に行ったときには、必ずその猫と遊ぶそうだ。だから猫の方でも相田さんになついている。猫が相田さんに大人しく抱かれていたのはそういう理由だよ」
「すると相田さんは君たちに相談するために、わざわざ友人から猫を借りだして連れてきたわけか」と須藤が言った。
「もしかすると猫そのものが、重要な手がかりかもしれないから、と考えたそうです」
「ふーん」どこか釈然としない顔で、理沙が頷いた。
「たしかに不思議な話ではあるが」須藤も納得がいかないという表情だ。「正直に言って、それほどの謎とは思えないな。そもそも二年も前のできごとだし」
「あれ? ちょっと待ってください」はっとしたように加奈が顔を上げた。「瀧川さん。さっき屋根裏部屋で見つかったのは雌猫だと言いましたよね」
「うん」瀧川は頷いた。「言ったよ」
「相田さんが事務所に連れてきたのは雄猫と聞きましたけど」加奈は首をかしげた。「まさか言い間違え……じゃ、ありませんよね?」
「もちろん違う」瀧川はにっこり笑った。「相田さんが連れてきたのは猫は、去年の猫だからね」
「去年の猫?」須藤が聞き返した。
「ええ」と瀧川は頷いた。「実は去年の九月にも、屋根裏部屋で猫が見つかったんです。しかも一昨年と同じく十五夜の夜に」
「何だって?」
「相田さんは今年の十五夜も猫が現れるかもしれないと心配していました。つまり、これは過去の事件ではなく、現在進行形のできごとなんです」


       3

「二年続けて屋根裏部屋に猫が出現したというのか?」長谷川が低く唸った。
「いったい誰が、何の目的で、そんな酔狂なことを?」呆れたように須藤が訊ねた。
「俺たちに答えを訊いてどうするんです?」瀧川はにんまりと言い返した。「それを今から皆さんが解き明かすんじゃないですか」
「お前たちは、この謎を解いたのか?」半信半疑の顔で、長谷川が訊ねた。
「もちろん」と探偵たちは控えめに答えた。「解決しました」
「今年も猫が出現したんですか?」と加奈が好奇心を露わに訊ねる。
「いや」瀧川は首を振った。「俺たちが阻止した」
「ふーむ。どうする?」長谷川が参加者の顔を見渡した。「探偵どもの挑戦を受けて立つか?」
「受けて立ちましょう!」即座に加奈が賛成した。
「何か見当がついたのか、加奈?」と須藤が訊く。
「いえ、ぜんぜん」と加奈は首を振った。「でもこっちは五人です。知恵を絞れば何か思いつきますよ」
「他の皆はどうだ?」長谷川が町内会長らしく、全員の意見を確認した。
「やってみますか」と須藤が言った。
「面白そうですね」と深原氏が微笑んだ。
「私もやってみたいです」理沙も頷いた。
「よし、挑戦を受けてやろう」長谷川は探偵たちに言った。「しかし、これまでの説明だけでは情報不足だ。もう少しヒントを出してもらおうか」
「分かりました」と瀧川は頷いた。「ではいくつかヒントを差し上げます。まず猫を持ち込んだのは、相田家の家族――相田さん、奥さん、長男、そして長女の中の誰かです。犯人は単独犯であり、外部の協力者はいません。
 猫を持ち込んだ方法についても無視してください。屋根裏部屋のドアは鍵が付いていません。家族であれば誰でも自由に出入りできます。
 それから一昨年と昨年では、発見時の状況はほとんど同じですが、違う点もあります。一昨年の猫発見時に家にいたのは、相田さん夫妻と長女の三人。昨年のときは相田さん夫妻だけです」
「考えなきゃならんのは」と長谷川が確認した。「誰が、何の目的で、猫を屋根裏部屋に入れたのか、ということだな」
「そうです」と瀧川は頷いた。「すでに説明したように、謎自体はシンプルです。一昨年の九月の晩、誰かが相田家の屋根裏部屋に猫を持ち込みました。そして翌年の九月にも、誰かが同じ行為を繰り返しました。その犯人と動機を推理してください」
「本当にシンプルだな」
「質問は随時受けつけます。推理の過程で疑問に思ったことがあれば、遠慮なく訊いてください。真相に抵触しない範囲で、俺か湯野原が答えます」
「それでは、基本的な質問をいくつかさせて頂きたいのですが」
 手を上げたのは深原氏だった。ここまでほとんど発言せず黙って聞いているだけだったので、あまり興味が無いのかと瀧川は思っていたが、違ったようだ。あるいは最大公約数的な質問を行うことで、他の人たちの手間を省こうと考えたのかもしれない。だとすれば、さすがはオーナーの元で長く総務部長を務めた人ならではの気配りだ。
「どうぞ」と探偵たちは頷いた。
「ではまず、一昨年――屋根裏部屋に初めて猫が現れたときのことを伺います。その夜、相田家にいたのは、相田氏と奥さん、そして娘さんの三人ですね」
「そうです」
「相田さんは、その夜は何時に帰宅されたのですか」
「午後九時過ぎです」
「帰宅するのはいつもそのくらいの時間ですか? それとも不規則なのですか?」
「だいたい八時から九時頃になることが多いそうです。遅くなるときは、奥さんに連絡すると言ってました」
「なるほど」と深原氏は頷いて質問を続けた。「屋根裏部屋は物置として使用しているのですね。用事がない限り足を向けないと思うのですが、相田さんはなぜ屋根裏部屋に行ったのですか?」
「目覚まし時計を探しに行ったんです」と瀧川は説明した。「たいていの人は寝る前に目覚まし時計をセットしますよね。相田さんもベッドに入る前にアラームのスイッチをオンにしようとして、時計が止まっていることに気づいたんです」
「ほう」
「誰でもそうだと思いますが、時計が止まれば、まずは電池切れを疑います。相田さんも電池を替えてみました。ところが針は止まったままです。時計を振っても叩いても針が動かない」
「電池がなくなったのではなく、時計本体が故障したのですね」
「相田さんもそう考えました。しかし他の部屋に置いてある時計は、どれもアラーム機能が付いていなかったのです。新しいものを買おうにも、もう電気店は閉まっている時刻です。困った相田さんはそのとき、長男が一人暮らしを始めるときに、それまで使っていた目覚まし時計を置いていったことを思い出しました。たしかあの時計を捨てずに屋根裏部屋に保管してあったはずだ、と」
「それで、時計を取りに屋根裏部屋に行ったのですね」
「そうです」
「すると屋根裏部屋に猫がいた。……なるほど」
 深原氏は少し考えて、再び質問に戻った。
「娘さんは猫が好きなのですか?」
「子供たちは二人とも動物好きだそうです」
「すると家族の中で奥さんだけが猫嫌いなのですね。――で、時計を探しに行って猫を見つけてしまった相田さんは、それからどうしたのですか」
「思わず抱き上げて、『お前、いったいどこから来たんだ?』と問いかけたそうです。もちろん答えは返ってきませんでしたが」
「そりゃ、そうです」深原氏が微笑した。
「それから、妻にどう説明しようか、と考えながら、相田さんは階下に降りて、リビングにいた奥さんと娘さんに猫を見せました」
「二人の反応はどうでしたか?」
「奥さんは猫を見た瞬間、顔色を変えて、『早く外へ連れ出して』と夫に頼みました。でも長女が可哀想だからと、子猫を自分の部屋に連れて行って、一緒に寝たそうです」
「ほう、娘さんが」
「この段階では、相田さんは、窓から猫が入り込んだのかな、と気楽に考えていました。しかし後であらためて屋根裏部屋を調べたり、奥さんや長女に確認するうちに、猫が勝手に入り込むことはありえないと気づいたんです」
「なるほど。一昨年に相田さんが猫を見つけたときの状況は分かりました」と深原氏が頷いた。「それでは去年の発見時の様子も聞かせて頂けますか」
「去年も猫を見つけたのは相田さんです。ただし相田さんはその直前まで、一昨年のことをすっかり忘れていたそうです」
「忘れていた?」
「会社の組織が再編されることになって、そのための準備で忙殺されていたんです。ところが当夜、帰宅して遅い晩ご飯を食べているとき、たまたま奥さんとの会話の中で一年前の猫の話が出たそうです。『結局、どこから猫が入ったのか分からなかったよね』と奥さんに言われて、そういえば去年そんなことがあったな、と相田さんは思い出した。猫の話題はそれだけで終わったのですが、奥さんがどことなく不安そうな様子だったので安心させてあげようと思って、夕食を終えた後で屋根裏部屋を覗いたんです」
「すると、猫がいたんですね」
「むしろ二度目の方が驚きが大きかったそうです。一度だけなら何かの偶然ということもありますが、二年連続となれば、明らかに何者かの意志が働いているとしか思えませんからね」
「そのときも、猫がどこから入ったのか分からなかったんですね?」
「分かりませんでした」
「ふーむ」
 一同は考え込んだ。
「どういうことなんだろうな、いったい?」長谷川が顎をさすりながら独りごちた。
「きっと同一人物の仕業なんだろうけど」須藤も首を捻った。
「そもそも犯人の目的は何でしょうか?」と理沙が問いかけた。
「猫を用意するのはお金も手間もかかるし」と長谷川が応じる。「単なる面白半分の悪戯じゃ割に合わん。何かメリットがなければやらないだろう」
「だけどメリットがありますかね。誰も得していませんよ」と須藤。
「奥さんを驚かせるため……とか」自信なさそうに加奈が言う。
「それは違うでしょう。猫を見つけるのはいつも相田さんですから」と深原氏。
「……ですよね」という加奈の呟きを最後に、再び沈黙が落ちた。
「他に質問はありますか?」瀧川は皆を見回した。「なければ質問タイムは終了とします。俺たちはちょっと席を外して、酔い覚ましのお茶を用意してきます。そのあいだに素晴らしい推理が組み上がることを期待しています」
「べつに最後まで完結した推理でなくてもオーケイです」湯野原も立ち上がりながら言葉を添えた。「犯人はこいつだ、とか、動機だけは分かった、でも結構です。それが他の人へのヒントになるかもしれないので、断片的なひらめきであっても披露してもらえれば有り難いです」


       4

 しばらくのあいだ、参加者はお茶を味わいながら推理に熱中した。テーブルの上に心地良い沈黙が漂っている。
 やがて、眼鏡を拭きながら考えていた須藤が、静かに眼鏡をかけ直した。
「よし。では、まず僕が先陣を切ろう」
「何だと?」長谷川が驚いたように声を上げた。「もう分かったというのか?」
 黒縁眼鏡の奥で、須藤の目が照れたように細められた。
「犯人がなぜ、猫を屋根裏部屋に持ち込んだのか。その動機や目的については、残念ながら僕には分からなかった。だけど、誰がやったのかは議論の余地が無いと思う」
「ほう」感心しつつも、どこか疑わしげに長谷川が訊ねた。「犯人は誰かね?」
「犯人を特定するにあたって、僕が着目したのは、猫が現れた晩に相田さんの目覚まし時計が故障したという事実です」
 須藤は皆の顔を見回しながら言った。
「ここで問題になるのは、目覚まし時計が故障したのは果たして偶然だったのか、という点です。屋根裏部屋は物置として使われているので、用事がなければ誰も足を踏み入れません。もし目覚まし時計が故障しなければ、相田さんが屋根裏部屋に行くこともなく、もちろん猫を見つけることもなかった。時計が故障したのは偶然ではなく、誰かが意図的に壊したのです」
「誰が時計を壊したんだ?」長谷川がせっかちに訊いた。
「猫を屋根裏部屋に入れた人物です。その人物は猫を相田さんに見つけさせたかった。そこで寝室の目覚まし時計をわざと故障させた。そうすれば相田さんが屋根裏部屋の時計を思い出し、取りに行くだろうと予測できます」
「なるほど」と深原氏が頷いた。
「となると、犯人は奥さんでしかあり得ない」
「子供たちの犯行かもしれませんよ」と瀧川は言った。
「だめだめ」須藤は眼鏡をくい、と押し上げた。「そんな見え見えのミスリードに引っかかるほど僕は間抜けではないよ」
「どうしてミスリードだと思うんです?」
「犯人は単独犯で、他の家族には気づかれていないと、瀧川君が言ったからさ。長男か長女が屋根裏部屋に猫を持ち込むことは可能だろう。だけど母親に気づかれずに実行するのは難しい。瀧川君は奥さんが専業主婦だと僕たちに説明した。これは奥さんが普段は家にいるということだ。もちろん買い物をしたり、用事で外出するだろうけど、母親がいつ家を空けるのか子供たちには分からない。たとえば長男が犯人であり、母親の外出の予定を事前に確認したとしようか。その夜に誰かが家に猫を持ち込んだら、奥さんは長男が自分の留守の間にやったのではないかと怪しむはずだ」
「一応、理屈は通っているな」と長谷川が言った。
「だけど奥さんなら、他の家族に知られることなく犯行が可能です。問題は猫嫌いの奥さんが屋根裏部屋に猫を持ち込むことができるかどうかだが、実はここでも瀧川君はささやかなトリックを仕掛けている。彼の説明を聞くと、猫嫌いの奥さんには不可能な犯行に思える。だが注意深く聞けば、彼は奥さんが猫嫌いであることは何度も強調しているが、〈嫌い〉の程度については具体的に説明していないんだ。ここは重要なポイントだと思う。たとえば〈強度の猫アレルギーがあってどうしても触ることができない〉のであれば犯行は無理だ。だが好きではないが、友人の飼い猫を微笑んで撫でることはできる、という程度の〈嫌い〉なら、犯行は充分に可能だ。瀧川君はその点を意図的にぼかしていた。僕はそのメッセージに気づき、奥さんの猫嫌いはあくまでも軽いものであり、彼女がその気になれば猫を扱うことは十分に可能だと判断した」
「えーっ、ぜんぜん気がつきませんでしたよ」加奈が呆れたように言った。「瀧川さん、探偵を始めてから性格が悪くなったんじゃないですか」
「大げさだな」瀧川は苦笑する。「色々な解釈ができた方が面白いし、別に気がつかなくても謎は解けるよ」
「奥さんを犯人だと結論した根拠は他にもあります」二人のやりとりに構わず、須藤は推理を続けた。「相田さんが屋根裏部屋に行ったのは、目覚まし時計が壊れていたからです。目覚まし時計は毎晩セットします。したがって時計を壊すのは事件当日の昼間でなければならない。他の家族に知られずに時計を壊すことができるのは、やはり奥さんだけです」
「理屈っぽい割には、ずいぶん綱渡りの推理だな」長谷川がからかった。
「それを言われると弱いですが、時計を壊したのも、猫を持ち込んだのも奥さんだという点には自信があります」と須藤は断言した。「しかし最初に言ったように、なぜそんなことをしたのか、どうして翌年も同じことを繰り返したのか、については皆目見当がつきません。それに関しては、他の人の推理を待ちたいと思います」


       5

 須藤の発表が終わり、皆が多少納得したような、しかし釈然としないような、微妙な表情を浮かべたとき、こほん、と小さな咳払いが聞こえた。
「それでは、次は私の推理をお聞かせしますね」
 加奈が陽気に言った。今日はずいぶんお酒を飲んだはずなのに、ほとんど酔いが顔に出ていなかった。彼女は日本酒は純米酒しか飲まないというこだわりを持つくせに、焼酎は芋麦米黒糖何でも来い、と普段から豪語している。このメンバーの中で一番の酒豪は、実は加奈ではないか、というのが瀧川と湯野原の一致した結論だった。まあ、それはどうでもいいのだが。
「マスターは猫を持ち込んだのは奥さんだと推理したけど、私は高校生の娘さんだと思うんです」
「長女が猫を持ち込んだというのかい?」須藤が訊いた。
「私の勘では、真相はいたってシンプルというか、偶然の成り行きの結果だと思うんですよ」
「ほう」
「長女は学校からの帰り道で、捨て猫を拾ったんです」と加奈は言った。「母親が猫嫌いなのは分かっているので迷ったと思います。でも、どうしても見捨てることができなかったんです」
「だから、猫を実家に連れて帰ったと?」長谷川が訊く。
「はい。心の優しい女の子なんですよ、彼女は」加奈はまるで友達を紹介するように言った。
「なるほど」と須藤が言った。「しかし、いくら捨て猫が可哀想だからって、母親に内緒で持ち込むのはまずいんじゃないか」
「わざと黙っていたのではなく、結果的にそうなってしまったんです。おそらく長女は母親に電話をかけて、猫を連れて帰ることを知らせようとした。だけど母親は電話に出た途端、こちらが用件を言うより先に話し始めるタイプの人だったんです」またもや見て来たように話す加奈である。「たとえば、『あ、加奈。もう帰ったの? ごめん、スーパーで山田さんとばったり会ったのよ。久しぶりだから誘われてお茶を飲んだら、すっかり話し込んじゃって。今から帰るところ。あと二十分くらいで帰れると思うから。じゃあね』……みたいな感じです」
「ああ、いるな」長谷川が思い当たるような笑みを浮かべた。「まず自分の言いたいことを先に言う人が。相手が言い終わるまで、こっちはひとことも喋れないんだ」
「そういうわけで長女は言いそびれてしまったんです。まあ、母親が帰ってきてから言えばいいか。そう思って猫を連れて帰宅しました。リビングや自分の部屋ではなくて屋根裏部屋を選んだのは、一応母親に気を遣ったんです」
「だけど、長女は母親に話した様子はなかったけど?」と須藤が言った。
「帰宅した母親はひどく機嫌が悪かったんです。実は別れ際に山田さんから言われたひとことが気に障って、時間が経つにつれて怒りががどんどん増殖してしまった。だから家に戻って娘の顔を見た途端、母親は山田さんの愚痴や悪口を並べ始めた。家族が相手だとちょっと甘えて気が済むまで言葉を吐き出すことがありますよね。このときもそうだったんです」
「とても猫の話を切り出せる雰囲気ではなかったと?」
「そうなんです」その場で見ていたかのように、加奈は頷いた。「そこで長女は、母親ではなく、父親に相談することにしました」
「なるほど。父親なら猫好きだし、母親よりも理解を得やすいだろう、そう思ったんですね?」深原氏が言った。
「でも、彼女は結局、父親にも話さなかった」と須藤が指摘した。
「またもや、ささやかな行き違いが生じたんです」
「行き違い?」
「父親が帰ってくるまでの数時間、長女は子猫のことが心配で、ときどき屋根裏部屋に様子を見に行ったんじゃないでしょうか」
「うん、うん」と理沙が頷く。
「そのうち日が暮れて辺りが暗くなったので、子猫が暗闇を怖がって鳴いたんです。だから長女は屋根裏部屋の明かりを点けたままにしておきました」
「ふむ。それで?」先の展開が読めないという顔で長谷川が促した。
「そして午後九時過ぎに父親が帰ってきます。父親は門扉を開けながら、屋根裏部屋の窓に明かりが灯っていることに気づきました。こんな時間に誰か屋根裏部屋にいるのかと少し怪訝に思いながら家に入ると、いつもは夕食後すぐに部屋に引き上げる長女が、珍しくリビングでテレビを見ています。妻はキッチンにいます。屋根裏部屋の明かりは妻か娘が消し忘れたのでしょう。長女がさりげなく目配せをするので、何か話があるようだなと察しつつ、父親は二階の自室に服を着替えに行きます。そしてリビングに下りる前に、明かりを消しに屋根裏部屋に寄りました」
「そのときに猫を見つけたのか」と須藤が言った。「だけど、相田さんが猫を見つけたのは、もっと遅い時刻だったはずだが」
「それにも理由があるんです。屋根裏部屋で子猫を見つけた瞬間、父親は娘の用件はこれだったか、と悟ります。そして同時に、少し困った事態になっていることに気づきます」
「何が起こったんだ?」
「子猫がオシッコかウンチをして床の絨毯が汚れていたんです。相田さんはすぐに後始末をしましたが、汚れと匂いが残ってしまった。これを妻が見れば娘を怒るだろうな、とげんなりしました。そこで一計を案じたんです。この子猫は娘が拾ってきたのではなく、勝手に入り込んだことにすればいい。そう考えたんです」
「何だと」長谷川が意表を突かれた顔になった。
「相田さんは子猫をくるんでいた毛布とか、ミルクの皿などを片付けます。そして何気ない顔で階下に戻り、妻がそばにいないときに、娘に状況と打開策を伝えました。『ま、お父さんに任しておきなさい』という感じです。きっと相田さんは娘に甘いお茶目な父親なんですよ」
「それじゃ」須藤が何かに気づいた。「あの目覚まし時計は……」
「実は壊れていません。後でもう一度、屋根裏部屋に猫を見つけに行くための、理由づくりだったんです」
 と加奈が言った。
「というわけで、あの不可能状況は相田さん自身がつくりだしたものだった、というのが私の推理です」
「しかしなあ」須藤はあまり納得がいかないという顔つきだった。「一歩譲ってそうだったとしても、翌年も猫が現れたのは、どういう理由なんだ?」
「……問題はそこなんです」加奈はおでこを手で押さえて小さく唸った。「まさか翌年も長女が猫を拾ってきたとは思えないし。だとすれば誰が猫を屋根裏部屋に持ち込んだのか。いくら考えても説明がつきません。まったく困りました」
「それに加奈の推理が真相だったら、相田さんにとって、最初の猫の出現は謎ではないわけだ」と須藤が指摘した。「一度目の状況を正直に話した上で、〈なぜ翌年も同じことが繰り返されたのか〉を探偵に推理して貰うはずだよ」
「うー、悔しいけど言い返せない」加奈はため息をついた。「いい着眼点だと思ったんだけどなあ……。推理ってほんとに難しいですね。こっちに説明を付けると、別の箇所が破綻するんだもんなあ。というわけで、真相の解明は、後に続く皆さんに託すことにします」


       6

「片桐はどう?」と瀧川は理沙に声をかけた。「何か思いついたことがあったら聞かせてくれよ」
「えっ、私?」理沙は困ったような笑みを浮かべた。「やっぱり私はいいよ。推理なんて、どうやればいいのか分からないし」
「そう堅苦しく考えなくてもいいではないか」と長谷川が優しく言った。「須藤さんや加奈ちゃんをご覧なさい。途中で煙のように消える怪しげな推理を堂々と披露しておる。あれで構わんのだよ」
「心外な言われようだな」須藤は加奈と顔を見合わせて苦笑した。「これでも真相の一端を鋭く突いた推理だと自負してるんだけど」
「まったく同感です」と加奈が頷く。
「そういう会長は、どうなんですか?」と瀧川は訊いた。何か思いついたら発言を遠慮するような奥ゆかしい人物でないことは承知しているが、一応お伺いを立てておかないと機嫌を損ねたりするので面倒くさい。「もし会心の名推理があれば、ぜひ披露していただけますか」
「俺か」と長谷川が言った。「俺は、パスだ」
 なぜか得意そうに宣言すると、焼酎のグラスをくいと干した。
「何も思いつかなかった」ガハハと笑った。「だから推理はない。ナッシングだ。以上」
 加奈が思わず吹き出した。理沙も気持ちが和んだようだった。
「それじゃ、ちょっとだけ」理沙が瀧川に言った。「思いつきを話してみてもいい?」
「もちろんだとも」長谷川がにこやかに言った。「ぜひ探偵どもの鼻を明かしてやりなさい」
「いえ、事件の謎が解けたわけではないんです」理沙が慌てて手を振った。「ただ、瀧川君の説明を聞きながら、ずっと気になっていたことがあるんです。といっても私が引っかかったのは、依頼人の話の内容ではなくて、依頼人自身に関することなんですが……」
「ほう、依頼人自身の謎ですか」と須藤が言った。「それは興味深いですね」
「依頼人の相田さんが猫を連れて相談に来たのは、なぜなんでしょうか」と理沙は問いかけた。
「なぜ……と、いうと?」
「その猫の種類や外見が、謎を説明するのに必要だというなら、相田さんの行動は理解できます。でもこの謎は言葉だけで状況が説明できます。わざわざ猫を連れてくる必要はありません」
「なるほど、たしかにそうだ」と須藤が納得した表情になった。「実際、瀧川君は猫の外見は謎解きに関係ないと言ってたし」
「それなのに相田さんは猫を連れてきました。これがひとつめの違和感です」
「他にもあるんですか」
「はい。違和感のふたつめは、相田さんが猫を抱いて事務所に現れた、という点なんです」と理沙が説明した。「もし相田さんが事務所に来るのに電車やバスを使ったのなら、猫をケージに入れて持ち運んだはずです。だけど相田さんは猫を腕に抱いていました」
「自分の車かレンタカーで事務所まで来たってことか」と長谷川。
「車を使ったとしても、やはり変です」と理沙が続けた。「だって連れてきたのは他人の飼い猫です。いくら慣れていても猫は気まぐれですから、やはりケージに入れて持ち運ぶと思います」
「確かに言われてみれば……」長谷川と須藤は顔を見合わせた。
「たぶん、その猫は相田さんの飼い猫なんです」
「でも、相田さんが猫を飼うのは無理じゃないですか」と加奈が疑問を投げた。「奥さんが賛成するはずがないし」
「私も最初はそう考えました」理沙が頷く。「だけど、やはりそうだとしか思えないんです」
「たしかに不思議ですね」と深原氏も同意した。「その矛盾に、片桐さんはどういう説明をつけたのですか?」
「相田さんは現在、単身赴任をしているのではないでしょうか」
 いきなり話が飛んだので、瀧川は面食らった。
「瀧川君が説明した相田さんの状況は、二年前に最初の事件が起こったときの話です。でも家庭環境は年月が経てば変わります。現在の相田さんが単身赴任で奥さんと離れて暮らしていることは充分にあり得ます」
「……なるほど。それで?」屋根裏部屋の謎はどうなった、と思いつつ瀧川は訊いた。
「元々、相田さんは猫好きでした。だけど奥さんに遠慮して長いあいだ猫を飼えなかった。それが単身赴任することになり、一人暮らしの寂しさもあって、相田さんは猫を飼い始めたんです」
「もちろん奥さんには内緒で?」と須藤が訊いた。
「はい。ところが、ひとつだけ困ったことがあります。ときどき奥さんが食事と部屋の掃除に来てくれるので、そのときは猫を知人に預けなければなりません」
「そりゃそうだ」と須藤が微笑んだ。
「でも、そのことが別の問題を招いたんです」
「と、いうと?」
「猫嫌いの人は、猫の匂いや抜け毛などに敏感です。だから相田さんは猫を知人に預けた後、部屋を念入りに掃除していました」
「なるほど」
「隅々まで掃除すれば、内緒で猫を飼っていることは気づかれずに済みます。ですが、ぴかぴかに掃除された部屋を見て、奥さんはどう思うでしょうか」
「言われてみれば」須藤が真剣な表情になった。「たしかに、ちょっと……不自然だね」
「だから奥さんは誤解したんです。相田さんが浮気をしているのではないか、浮気の痕跡を隠すために、夫は念入りに掃除をしているのではないか、と」
「そりゃ困るな」長谷川が笑って、焼酎のお湯割りを美味そうに口に含んだ。「こっそり猫を飼っていることがバレた方が、まだましかもしれん」
 誰かが窮地に陥ると上機嫌になるのだから、まったく困った人である。
「ちょっと待った、片桐」ついに瀧川は我慢できなくなった。「屋根裏部屋の謎ときは、いつ出てくるんだ?」
「いや、それなんだけど……」理沙は言いにくそうに、「ごめん、実は結びつかなかった」
「え?」瀧川は目を丸くした。いや、薄々はそんな気がしていたのだが。
「だって仕方ないじゃない」理沙がぼそぼそと言った。「相田さんが猫を連れていた理由を想像したら、こうなっちゃったんだから」
「いえいえ、なかな意表を突くご意見でした。面白く拝聴しましたよ」深原氏が優しく言った。
「真相は私には想像がつきませんでした」と理沙が言った。「だけど犯人は相田さんではないと思います。自分がやったのであれば、わざわざ探偵に相談する必要がないですから」
「なるほど」なぜか深原さんが微笑んだ。
「これまでの推理を聞いた限りは」と長谷川が言った。「一番ありそうなのは、やはり『娘が猫を拾って持ち帰った』説かな」
「私も、吉槻さんの推理が正解な気がします」と理沙も言った。
 そのとき、「あっ」という小さな声が聞こえた。皆が声のした方を見ると、長谷川が焼酎のグラスを手にしたまま、茫然とした表情で虚空を見つめていた。


       7

「どうしたんですか、会長?」
 瀧川が声をかけると、長谷川は我に返ったように、手のひらで顔を撫でた。その眼差しにいつもの炯々とした光が戻る。
「なるほど、そういうことだったのか」長谷川が呟いた。
「会長?」
「片桐さん。あんた、大したものだな」
 長谷川はそう言うと、いきなり理沙に向かって握手を求めた。
「……あの、何がでしょうか」戸惑ったように長谷川の手を握りながら、理沙が訊き返す。
「もちろん、今のあんたの推理に決まっておる」もどかしげに長谷川が答えた。「ほぼ正解じゃよ。見事なものだ」
「そうでしょうか」理沙が首をかしげた。
「そうだとも。そのことは俺が断言する。ただし真相に達するには、もう一捻りしなければならなかったのだ。だが俺があんたに代わって捻ってあげるから安心しなさい」
「……はあ」
「と、いうわけで探偵ども」長谷川がこちらに向き直った。「彼女の推理は真相にあと一歩のところまで来ておった。推理を先に進めるには、さらに発想を飛躍させる必要があったが、それは彼女の責任ではない。真相を見抜くには俺のような豊富な人生経験が必要だということだ」
「会長、話が見えないのですが」瀧川は控えめに言葉を返した。
「分かっておる。これからちゃんと最後まで説明してやるから、耳をかっぽじってよく聞くがいい」
 思い切り上から目線でそう言うと、長谷川は滔々と説明を始めた。
「まず言っておきたいのは、依頼人の発言を鵜呑みにしてはならんということだ」
「相田さんが嘘をついていると?」と湯野原が問い返す。
「まったくの嘘ではないが、多少話を大げさにして、一方で省略して告げなかったことがあったのさ」
「なぜ猫を連れてきたのか、という部分についてですか」湯野原が訊いた。
「そうだ。片桐嬢の明敏な頭脳が明らかにしたように、依頼人は妻に内緒で猫を飼っていた。そしてそのために窮地に陥った」
 長谷川は言葉を切って二人の探偵を睨みつけた。
「ただし、窮地に陥ったのは依頼人ではない。依頼人が猫を預けた知人だよ」
「奥さんが来るときに、猫を預かってもらった人ですか?」須藤が訊いた。
「その通り。知人は預かった猫を、いつも自宅の屋根裏部屋に隠していた。その猫を奥さんに見つかってしまったのだ。あの謎は相田さんではなく、知人夫婦の身に起こった話だったんだよ」
 瀧川と湯野原は、呆気にとられて口が挟めずにいた。
「当然、知人の奥さんは夫に説明を求めた。だが知人は奥さんに本当のことを言うわけにはいかなかった」
「どうしてですか?」と加奈が訊く。
「おそらく、相田さんと友人は家族ぐるみの付き合いだ。奥さん同士も仲がいいんだろう。しかし知人の奥さんは少しおしゃべりなところがあって、彼女に話すと相田さんの奥さんに伝わってしまう心配があったのだ」
「だから言えなかった?」
「うむ」長谷川は重々しく頷いた。「だが、そうなると知人は奥さんに納得のいく説明ができなくなってしまう」
「でしょうね」
「そこで知人は相田さんに何とかしてくれと要求した。しかし相田さんも上手い説明を考えつくことができなかった。どうしたものかと悩んでいたときにお前たちの噂を聞いたんだ。興味を惹く謎を持ち込めば、無料で謎解きをしてくれる物好きな探偵の噂だ」
「物好き、だけは余計ですが」
「何を言うか、本当のことではないか」と長谷川はにやりと笑った。「ま、それはともかく、そういう成りゆきの末に相田さんはお前たちに相談を持ち込んだ。ただし話の設定を、自分の家で起こったできごとに変えた。変えても解くべき謎に違いはないからな」
「じゃあ、毎年、猫が現れる謎はどうなるんです?」
 瀧川はげんなりしながら訊いた。誰も彼もが、平然と謎の前提を無視して澄ましている。この世にまともな推理はないのか、と嘆きたくなった。
「話を膨らました方が、謎の不思議さが増して探偵の興味を惹くだろう、と考えたのだ。これが〈屋根裏部屋の猫事件〉の真相だ」
 長谷川は心地よく話し疲れた表情で、グラスの水を飲んだ。
「どうだ、探偵ども。俺の名推理は?」
「実に素敵な推理でした」と瀧川は微笑した。「ただし、不正解ですが」


       8

「深原さんは、いかがですか」瀧川は、深原氏に訊ねた。
「分かった気がします」まったく酔いを感じさせない口調で、深原氏が言った。「ヒントは最初から、瀧川さんと湯野原さんが提示してくれていましたから」
「えっ、本当かね?」
「マスターは気がつきました?」
「……いや、まったく」
 長谷川と須藤と加奈が、悔しそうに言葉を交わした。
「話を伺いながらずっと、おかしいなと思っていました」深原氏は淡々と話した。「私が疑問に思ったのは、依頼人の話の中身ではなく、依頼人が猫を連れてきたことでもなく、なぜ依頼人が自分の依頼内容を飲み会で披露されることに同意したのか、という点でした。普通なら断るはずです。だが依頼人は承諾しました。どうしてだろうと考えていくうちに、ひょっとすると依頼人は探偵の頼みを断れなかったのではないか、と気がつきました。ではなぜ断れなかったのか」
 深原氏は、ひと息おいて言った。
「その理由は、これが〈プロバビリティの犯罪〉だったからです」
「プロバビリティ?」加奈が首をかしげた。
「わずかな可能性にかける犯罪のことだよ」と須藤が説明した。「たとえば階段にビー玉をそっと置いて、いつか相手が足を滑らせて大けがをするのを気長に待つ、というような性質の犯罪だ」
「相田氏は嘘をついていました」と深原氏が言った。「彼があたかも過去二年のあいだに起こったかのように話したことは、本当はこれから起こるはずのできごとだったのです」
「えっ。それじゃ」と加奈が呆気にとられたように訊いた。「依頼人は、まだ起こっていない犯罪を瀧川さんたちに相談したってことですか?」
「そうです」と深原氏が頷いた。「彼は自分が暖めてきた犯罪計画を、お二人に話したのです」
「すると依頼人は」長谷川が不快そうに顔をしかめた。「その猫を奥さんに見つけさせて、驚いた奥さんが、階段を転げ落ちることを狙ったというのか」
「はい。奥さんが階段を転げ落ちて、怪我をするか、あるいは……」深原氏が言い淀んだ。
「なんてことだ……」長谷川が絶句した。
「じゃあ、依頼人が抱いていた猫は?」と理沙が訊ねた。
「その目的で使うために手に入れた猫でしょう」深原氏が答えた。
「ちょっと待ってくれ」長谷川は戸惑った表情で言った。「仮にその男が妻を殺す計画を立てたのなら、なぜその計画を探偵に話したんだ? 逆じゃないか。普通は隠しておくものだろう?」
「もちろん、隠しておくのが普通です。ですが犯人にはどうしてもクリアしなければならない問題がありました。その計画が成功した暁には、なぜ猫が屋根裏部屋に入り込んだのか、という謎が生じてしまうのです。
 当然ながら事実を話すわけにはいきませんから、依頼人は、なぜ密室に猫が出現したのか、その理由を用意する必要があります。ですが、どれだけ必死に頭を絞っても警察を納得させられそうな理由を思いつけなかったのです。そこで――」
「探偵どもに、代わりに考えさせようとしたのか?」
「そういうことです」
「何という呆れた話だ」長谷川はゆるゆると首を振った。
「同感です」言葉とは裏腹に、むしろ感心したように深原氏が言った。「犯罪計画の補強を探偵にやらせようとは、実に独創的な……失礼、実に怪しからん男ですな」


       9

「それで探偵ども。どうなんだ? 深原さんの推理は当たっているのか?」
 長谷川が二人を睨みつけた。その目が、どうか外れていてくれ、と語っていた。
「瀧川。この先は俺が話すよ」と湯野原が言った。
「うん、任せた」瀧川は頷いて椅子に背中を預けた。喉が渇いたので、グラスを取り上げてお茶をひとくち飲んだ。
「この仕事を一年以上やってみて、痛感したことがあります」
 湯野原はそんな風に話し始めた。
「俺たちの事務所が無料にもかかわらず、なぜ閑古鳥が鳴いているのか。世の中に面白い謎が少ないからだ、という答えは事実ですが、もうひとつ同じくらい重要な理由があります。みんな忙しいんです」
「そうね」と理沙も頷いた。「私が二人に相談したのも、至急何とかしたい事情があったからだし」
「だろう? 相田さんは五十歳のサラリーマンだ。毎日、会社で忙しく働き、家に帰れば、夫として父親としてやるべきことも多いでしょう。その相田さんが、なぜ貴重な休日を使ってわざわざ俺たちを訪ねてきたのか?
 俺は最初のうち、相田さんは奥さんに請われて来たんだろう、と思ってた。猫嫌いの奥さんからすれば、自宅に何度も猫が入り込むのは、かなりのストレスだろうし」
「そうじゃなかったの?」理沙が訊いた。
「違う。相田さんは、『妻には内緒で来ました』と言っていた。探偵事務所に来たのは相田さん自身の意志だったんだ」
「そうだったのか……」と理沙が呟く。
「相田さんがわざわざ猫を連れてきたことは、俺たちもちょっと不思議に思ったよ。だから訊いてみた。相田さんから返ってきた答えはこうだ。『最初は一人で来るつもりだったけど、探偵ならこの猫を見て、私が気づかなかった何かに気づくかもしれない。だから友人に頼んで猫を借りてきた』」
「……ふむ」と長谷川が眉をひそめて腕を組んだ。
「俺はその答えを聞いて、相田さんの印象が変わったんです。相田さんはこの謎をどうしても解かねばならない、と決意しているようでした。屋根裏部屋に子猫が現れるという他愛のないできごとに、相田さんは説明のつかない胸騒ぎを覚えていたんです」
「相田さんは、この件が単なる悪戯とか、愉快犯の仕業だとは考えていなかったんだな」と長谷川が言った。
「そう思います」湯野原が頷いた。
「依頼人の話を聞き終わったとき、俺も深原さんと同じく、プロバビリティの犯罪を考えました。ただ深原さんの意見と違っていたのは、子供たちのどちらか、あるいは二人が共謀して、猫嫌いの母親に犯罪を仕掛けたのではないか、という点でした。
 しかし、その推理には矛盾がふたつありました。まずプロバビリティの犯罪は相手に知られないように実行しなければなりません。相手に気づかれたらその時点で計画は失敗です。にもかかわらず猫は決まって毎年九月の十五夜に現れます。これでは不意を突くことは困難です。
 もうひとつの矛盾は猫を見つけるのがいつも相田さんであることです。子供たちが母親に悪意を抱いているなら、犯人は母親が屋根裏部屋に行くように誘導するはずです。だけど犯人がそう仕組んだ気配はない。実際に猫を見つけるのは必ず相田さんです」
「たしかに」と須藤が頷いた。
「この犯罪のターゲットは奥さんではなく、相田さんです。では犯人は誰か。相田さんを屋根裏部屋に行くように仕向けているのはいつも奥さんです。一度目は目覚まし時計を壊して。二度目はそれとなく去年の話を持ち出して怖がってみせ、相田さんを屋根裏部屋に向かわせた」
「だけど相田さんは大の猫好きじゃないか」と須藤が反論した。「相田さんが猫を見ても、驚いて階段を転げ落ちたりしないだろう」
「そうなんですよ」と湯野原が頷いた。「毎年九月の十五夜に猫が現れることが事前に予測できてもなお、プロバビリティの犯罪が成立するかどうか、です」
「できるのか?」と長谷川が訊いた。
「その予測を逆手にとればいいんです。相田さんは今年も猫が現れると予想しています。十五夜の晩が来れば、猫を見つけに屋根裏部屋への階段を上がるでしょう。だけどドアを開けた瞬間、猫ではなく、たとえば相田さんが苦手にしている生き物がドアの向こうにいたとしたら? 相田さんの不意を突くことが可能です」
 湯野原がため息をついた。
「というわけで、我々はまたもや、現在進行形の事件に関わってしまったわけです」
「先日の教訓がまったく生かされておらんではないか」長谷川は呆れ顔だ。「で、お前たちはどう対処したんだ?」
「どうって、いまさら放り出せませんからね」湯野原は肩をすくめた。
「とりあえず珈琲を淹れる口実で席を外し、瀧川に自分の推理を話しました。すると瀧川もほぼ同じことを考えていたんです。俺たちはこの推理が正しいことを確信しました。ただ問題はこの結論が依頼人にとってすこぶる不愉快な内容である点でした。『どっちが話す?』と瀧川が訊ねてきたので、俺と瀧川は依頼人に向かって謎解きをする栄誉を必死に譲り合いました」
「何をやってるんだ、まったく」長谷川がうんざりしたように目頭を揉んだ。「二人で話せば良かろう」
「俺たちも、同じ結論に達しました」と湯野原が照れ臭そうに頷いた。「俺たちは席に戻ると、相田さんに最後の質問をしました。『相田さんは、見ただけで逃げ出したくなるような、苦手な生き物がいますか?』と。相田さんは、『ひとつだけある』と答えました。『巨大な蜘蛛だけは、どうしても我慢できないんだ』。本当に嫌そうな顔でした」
「たしかに、あれのでかい奴は、ちょっと怖いな」須藤が呟く。
「なぜそんなことを訊くのか、と問い返されたので、覚悟を決めて、『もしかすると今年の屋根裏部屋には、猫でなく巨大な蜘蛛が待ち構えているかもしれません。もしドアを開けた途端、予想外のできごとが起こっても、驚いて階段から転げ落ちないように注意して下さい』と答えました。
 すると相田さんは不機嫌に、『誰が、何の為に?』と訊いてきました」
「当然の質問だろうな」と長谷川。「それで何と答えたんだ?」
「この三年越しの計画は、奥さんの悪意が秘められている可能性があります――と」
「えーっ。本当にそんなことを言ったんですか?」加奈が目を丸くした。「よく怒られませんでしたね」
「そりゃ、めちゃくちゃ勇気が要ったさ」湯野原が真顔で言った。
「相田さんは明らかにムッとしていたし」瀧川も首をすくめた。
「……当たり前じゃない」理沙が呆れたように言った。
「でも相田さんは、すぐに難しい顔つきで考え込んでしまった」
「思い当たる節があったようだな」長谷川がぼそりと呟いた。
「しばらく思案した後で、相田さんは苦々しげにこう言いました。『君たちは実に失礼な男だな』と」
 まったくその通りだ、と全員が深く頷く。
 瀧川は苦笑しながら、あのときの光景を思い浮かべた。

「……だが、大変に悔しいが、心のどこかで君たちの推理に納得しそうになっている」
 テーブルを挟んで、依頼人は憮然とした口調で言った。
「だから、確認してみることにするよ。来月、私の身に何が起こるのか」
 そして依頼人はつまらなそうに笑った。「もし、君たちの推理が外れていたら、君たちは誤った推測で私の妻を侮辱したことになる。そのときは覚悟したまえ。私の気が済むまで君たちを説教させてもらう」
「当然ですね」神妙に湯野原が答えた。
「しかし、もし君たちの推理が当たっていたら……」依頼人は猫を撫でながら表情を曇らせた。「困ったな。とてもお礼を言う気にはならない。できれば報酬を払って済ませたいところだが、君たちはお金は受け取らないという」
「ええ。報酬は頂きません」と瀧川は言った。
「じゃあ君たちが正しかったときは、どうすればいい? 何も要らないと言われては、私が困る」
「なるほど。そういうケースは考えてなかったな」湯野原が感心したように瀧川を見た。「どうしようか、瀧川?」
「……そうですね。九月といっても、まだ残暑が厳しいでしょうから」瀧川は少し考えて提案した。「ビールでも送って下さればありがたく頂きますが」
「いいだろう」依頼人は猫を抱いたまま、にこりともせず立ち上がった。「では結果を楽しみに待っていたまえ」

「――と、いうわけで」と湯野原が話をまとめる。「果たして一ヶ月後、顔を真っ赤にした相田さんが事務所に怒鳴り込んでくるか、それともお礼代わりのビールが届くのか。三割ワクワク、七割ドキドキで待っていたら、先日、相田さんからビールが届きました。とても二人では飲みきれない量だったので、皆さんと一緒に飲むことにしたんです」
「じゃあ、このビールがそうだったのか……」
 全員がしみじみとテーブルの上に並んだプレミアムビールの空き缶を眺めた。
「ところで、この話にはまだ続きがあります」と瀧川は言った。「後日、相田さんから追加でひとつ頼み事をされました。子猫の引き取り手を探して欲しいというんですが、俺も湯野原も飼うのはちょっと無理なので、誰かいい人がいれば紹介してくれませんか」
「いいけど、その子は今どこにいるの?」理沙が訊いた。
「事務所でスヤスヤと眠ってるよ」
「なに、それを早く言わんか」長谷川が勢いよく立ち上がった。長谷川を先頭に全員がタラップを上がって事務所に入っていった。
 ソファの上に置かれた箱の中で、子猫が毛布にくるまれて眠っていた。
「うわあ、かわいい」加奈と理沙が叫んで手を伸ばした。
 二人は子猫を抱き上げて、代わる代わる頬ずりした。
「あー、もう。うちのマンションがペット可だったら、私が飼うのになあ」加奈が悔しそうに呟く。
「じゃあ、私が貰ってもいいかな?」理沙が加奈に、それから探偵たちに訊ねた。
「うん、いいですよ」と加奈が頷いた。
「もちろん、俺たちも異論はないが」と瀧川。「片桐の部屋、ペットOKだっけ?」
「ううん、OKじゃない。だから引っ越すことにする」決然と理沙が言った。
「そんなに簡単に決めちゃっていいのか?」と驚く湯野原に向かって、理沙は頷いた。「うん、もう決めた」
「そうか。片桐さんが飼ってくれるなら、俺たちも安心だけど」
「名前も決めたわ。ティッピにする。素敵な名前でしょう。ねえティッピ?」
 だが話しかけられた子猫はそっぽを向いている。
「ティッピって英語かな?」湯野原が小声で瀧川に訊ねる。
「さあな。フランス語かイタリア語かも」と瀧川は答えた。
「えー、気に入らなかった? じゃあクッキーは? 駄目? それじゃマリン」
 理沙が次々に名前を挙げるが、子猫は無言で却下した。
「こやつ、なかなか凜々しい顔をしておるから、いっそ和風に甚五郎なんてどうだ?」無責任に長谷川が言った。
 その瞬間、子猫が「みゃあ」と応えた。
「……マジか」事務所の時間が凍りついたように止まった。
「ほんとに?」理沙が茫然と子猫に語りかける。「その名前がいいの? 甚五郎が?」
「みゃあ」静まりかえった事務所内に、可愛らしい鳴き声が響く。
「会長」瀧川は咳払いをして問い質す。「どう責任をとるおつもりですか?」
「ま、待て。俺はただ、ひとつの提案として、思いついた名前を挙げただけで」長谷川は後ずさりしながら額に汗を浮かべて弁解した。「まさか、こんな展開になるとは、予想もしていなかったのだ……」
 かくして飲み会は、剛毅で知られる町内会長がうろたえる姿を眺めながらお開きとなった。
 そして風の噂では、後日、片桐理沙と子猫のもとに、長谷川から心づくしの引越祝いが届いたそうである。


(終)