『時喰監獄』角川書店 (装画: 影山徹/装丁: 須田杏菜)
時喰監獄の表紙画像

〈入ったら二度と出られない〉監獄に、奇妙な囚人が集うとき、
秘密は暴かれ、時をかける大事件の幕が上がる!
                                        (オビの文面より)


第六十二番監獄。明治の初めに北海道の奥地に建てられたその監獄は、収監されれば二度と出られないという噂から、〈黒氷室〉の異名で恐れられていた。〈黒氷室〉行きとなった青年・北浦は、奇妙な囚人たちに出会う。三度目の脱獄を目論む不死身の男・赤柿、帝都の私立探偵だという浮き世離れした美青年・御鷹、そして閉ざされたはずの監獄に、ある日突然現れた記憶喪失の男。こいつは誰で、どこからやってきたのか? 謎を探るうち、北浦は監獄の〈本当の目的〉を知る! 思惑と「時間」の絡み合うプリズン・ミステリー!
                                           (裏表紙のあらすじより)



―― 本編より14年が経った、明治三十四年の帝都にて。 ――



 明治二十四年に福井の小さな雑貨商を引き継いだ赤柿雷太と北浦和己は、北陸一帯で成功を収め、創業十年にしていよいよ帝都に店を構えることになった。
 すべての準備が整い、明後日の開店を待つだけとなった夏の午後、北浦は、「ちょっと息抜きをしようぜ」と赤柿に誘われて馬車に乗り込んだ。
「どこに行くんだ?」
「行けば分かる」
 まとわりつくような熱気に包まれた帝都の町を、二人を乗せた馬車が北に向かって駆けていく。
 もはや北陸では知らぬ者がない大鳥商会の、赤柿は社長、北浦は常務だった。もともとは赤柿の義父が細々とやっていた雑貨屋で、たえと結婚したとき、義父から譲り受けた店だ。そのときは屋号もなかったので、赤柿は義父の姓をとって大鳥商会と名づけた。
 そのたった六畳一間の雑貨店が、明後日には帝都の一等地に店を出すのだ。赤柿は当然の結果だと思っているようだが、北浦にとっては文字通り、めくるめくような十年だった。
 あの〈黒氷室〉へ向かう護送馬車の中で、誰がこんな未来を予想し得ただろうか。俺には想像できなかった、と北浦は思う。あのときは絶望しかなかった。
 何だか夢のような気がするな。北浦は流れていく帝都の街並みを見ながら、久しぶりに感傷的な気分になった。最初の数年間は次から次へと難事が降りかかってきて、感傷に浸る余裕などなかった。それ以降は商売が忙しすぎて、やはり感傷に耽る暇はなかった。
「ここで止めてくれ」
 赤柿が御者に命じた。そして軽やかに地面に降り立った。
「北浦、少し歩こう」
 そう言うと、すたすたと歩き出した。北浦もその後についていく。
 赤柿が向かったのは、上野は不忍池からほど近い岩崎邸だった。あの三菱財閥総帥の邸宅だ。
 二人は少し離れた場所に佇み、しばらく黙って岩崎邸を眺めた。といっても延々と続く塀に遮られて、中の様子はまったく見えなかったが。
「すごいな。聞きしに勝る広さだ」北浦は唸った。「なんでも敷地は、一万五千坪あるらしいぞ」
「ふん」と赤柿が鼻を鳴らす。「まあ、俺たちより少しだけ先を行っていることは認めてやってもいい」
「少し、ねえ」北浦は微笑した。「相手の背中が全然見えないけどな」
「今はな」と赤柿が不敵に言う。「だが、十年で追いつき、二十年後には追い抜いてやる」
 まるで夢物語だが、大風呂敷を広げた感じは全くせず、むしろ淡々とした口調だった。
 そうなればいいよな、と言いかけて北浦は止めた。岩崎邸を静かな眼差しで眺めている赤柿の横顔を見つめる。
 赤柿はこれまで口にしたことを、ひとつ残らず実現してきた。だったら今の言葉も――。
 北浦はかすかに身震いをして、夕刻の夏空を見上げた。
 本当になるかもしれない。
「北浦、俺は決めたぞ」赤柿がふいに言った。「名前を変える」
「名前?」北浦は戸惑う。
「ああ。店の名前だ」と赤柿が頷いた。「大きな鳥の大鳥も悪くないが、天下の三菱と張り合うには少し不足だ。だから鳳凰の〈鳳〉にする」
「……鳳?」北浦は呆気にとられて赤柿を見つめた。そして思わず笑ってしまう。本気で張り合うつもりなのだ。「鳳凰とは、ずいぶん大きく出たな」
「お前はどう思う?」赤柿が訊ねた。
 かたちだけの確認ではない。北浦が反対すれば、赤柿は躊躇わずに意見を引っ込めるだろう。いつもそうだ。なぜかは分からないが、こいつは俺を信頼している。不思議なことだが。
 北浦はもう一度、広大な岩崎邸を見渡してから赤柿に視線を戻した。
「いや。俺も賛成だ」
「そうか」赤柿が満足そうに頷いた。「なら決まりだ。少し時間をくっちまったな。帰ろう」
 二人は馬車に戻った。
 静謐な区画を抜けると、懐かしい雑駁な空気が戻ってきた。上野駅前で人だかりがしているのが見える。
 新聞売りが声を涸らして、できたての新聞を売っているのだ。新聞は飛ぶように売れていた。
「何かあったらしいな」
 好奇心の塊のような赤柿が馬車を停止させ、するすると人混みを縫って前に出た。
「俺にもひとつくれ」
 赤柿は新聞を買うと、歩きながら読み始めた。北浦も横から覗き込む。
――探偵御鷹氏が大手柄。快刀乱麻の如く大使館バラバラ事件を解決!
 と大きな活字が目に飛び込んできた。
「ほう。解決したんだ。あの事件を」北浦は目を見張った。「さすがだな、御鷹さん。今回も大金星だ」
 扉も窓も施錠されていた某国大使館の貴賓室に、突如バラバラ死体が出現した怪事件は、この数日、帝都中の話題を独占していた。大使直々の依頼で、探偵御鷹球助が事件の調査に乗り出しており、御鷹が果たしてこの途方もない謎を解決できるのか、人々は固唾を呑んで見守っていたのだ。
 新聞の一面には、白い麻の背広を着こなした御鷹が、ソフト帽のふちをちょっと摘まんで微笑んでいる写真が掲載されていた。
「相変わらず、気取ってやがるな、あの大将は」口調とは裏腹に、赤柿も嬉しそうだ。
「監獄の中でさえ、洒落者だったからな、御鷹さんは」と北浦も言った。
 写真の中の御鷹は少しだけ年を取っていたが、それ以外は初めて会った十四年前と変わらない。色々な意味で浮き世離れした男だ。
「しまった」懐中時計を一瞥した赤柿が、今度こそ慌てた顔になった。「もうこんな時刻か! 遊びはこれまでだ北浦。急いで戻るぞ。山のような仕事が俺たちを待っている」
「お前が率先して寄り道をしてるんじゃないか」
 北浦の文句を聞き流し、赤柿は通りかかった男に「読むかい?」と新聞を押しつけると、さっさと馬車に乗り込んだ。
「まったく、もう」と、ぼやきながら北浦も馬車に戻る。
 店開きは明後日だというのに、馬車に揺られながら、赤柿は新しい事業について話し始めた。
 赤柿はいつも、まず北浦に計画を打ち明けて意見を求める。
 彼が次に始めようとしている事業は壮大な内容だった。堅実な人ならおよそ現実味がないと笑うだろう。だが……。
 赤柿の話に耳を傾けながら、北浦は体の芯が熱くなるのを覚えた。同時に心がふわりと軽くなる。
 だが。いつか、やる遂げるんだろうな、お前は。
 胸の内で呟いたつもりだったが、知らず口に出ていたようだ。
 赤柿がふっと言葉を切り、珍しく照れくさそうな顔をした。
「ああ。お前の助けがあれば、な」と小声で言う。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに赤柿は精悍な事業家の顔を取り戻し、事務所の前に馬車が停まるまで、これからの十年でやるべきことを北浦に熱く語り続けた。